誤った二分法:人はなぜ、白黒つけたがるのか?

誤った二分法 二分法の誤謬 白黒思考 誤前提暗示
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「Aにしますか? それともBにしますか?」

二者択一で問われると、どちらかを選ばなくてはいけない気持ちになる。無性に白黒つけたくなるのだ。

この状況を「誤った二分法」といい、「他にも選択肢があるのに、二つの選択肢だけしか考慮しないこと」を指す。

対面の交渉術では定番の心理テクニックだが、実はブランドのポジショニング戦略にも使える。

うまくいっているブランドは、「誤った二分法」を生かし、市場を二分する対立軸を見つけ、競合ブランドとは対極のポジションを確立していたりするものだ。

目次

二者択一法が招く誤謬(ごびゅう)

「あなたはどっち派?」

こんなくだりに耳馴染みはないだろうか? 

Googleでちょっと検索すれば、この二者択一で迫る問いかけが、バラエティ番組やネットコンテンツ、あるいは消費者向けの販促キャンペーンなど多方面で使われていることが確認できる。

東洋水産の「赤いきつね」「緑のたぬき」明治の「きのこの山」「たけのこの里」など、「どっち派?」を問うテレビCMを覚えている人も少なくないはずだ。

いきなり二択で問いかけられると、必ずどちらかを選ばなくてはいけない気持ちになる。

白黒つけたくなるのだ。

そのため、たとえ一瞬でもその2つの選択肢に注意を向けることになり、印象には残りやすくなるだろう。

時に論争を呼ぶなど話題にもなるため、ちょっとした娯楽のネタとしてはうってつけといえる。

しかし、この二者択一で相手に迫るやり方は、その使い方にひと工夫すれば、相手から「YES」を引き出す強力な武器になる。

相手が望んでもいない行動に駆り立てる力さえあるのだ。

それが今回取り上げる「誤った二分法」である。

「誤った二分法」とは「実際には他にも選択肢があるのに、二つの選択肢だけしか考慮しない状況」をいう。

「二分法の誤謬(ごびゅう)」といういい方もある。

「壺を買えばいいことが、買わなければ不幸に」の二者択一で迫る

「情報を正しく選択するための認知バイアス事典」(フォレスト出版、2021年)で「二分法の誤謬」の項目に書かれていた例を一つ挙げよう。

最近いいことがないのは、運気が滞っているからです。

この壺を買って部屋に飾れば、必ずいいことがありますよ。

しかし、買わなければ、あなたは不幸になります。

つまり壺を買えば幸運が巡ってくるが、壺を買わなければ不幸になるというわけだ。

壺を買うか、買わないかで自分の運気が左右されてしまうという荒唐無稽の主張である。鵜呑みにする人はまずいないだろう。

普通に考えれば、壺を買わなくても幸運をつかむ方法はいくらでもあるはずである。

逆に壺を買ったからといって不幸にならない保証はない。頭の中に4象限のマトリックスを思い浮かべ、縦軸に「壺を買う・買わない」を、横軸に「幸・不幸」を置けば、この主張から抜け落ちている象限がすぐに分かるだろう。

ところが悪霊や先祖の祟りなどと過度に不安を煽られ、心理的に追い詰められると「壺を買う→幸せ」「壺を買わない→不幸」の2つが全てのように感じてしまうのだ。

「誤った二分法」は、本来考慮すべき他の選択肢を一切排除してしまう。思い込みや錯覚の類(たぐい)であり、字義通り誤っているのだ。

日常のいたる所で隙を突いてくる「誤った二分法」

「壺を買わなければ不幸になる」といった極端な例でなくとも、「誤った二分法」はここかしこで私たちの日常の隙を突いてくる。

たとえば、資格試験を目前に控えたタイミングで、受験対策講座が開催されるとしよう。

おそらく高額な受講料にもかかわらず、申し込んでしまう人がいることは想像に難くない。その受講があたかも試験合格の命運を握っているように感じてしまう。

冷静に考えれば、受講しないで合格するという道を模索してもよさそうだ。

オセロゲーム 白黒思考

この「誤った二分法」と似た概念に「白黒思考」というのがある。

白と黒のどちらかしか選択肢のない極端な発想・考え方をいうらしい(クレームナビ、202.6. 13)

万事が「オール・オア・ナッシング(全てか無か)」で、細やかに視点を変えることで見えてくるグレーゾーンの選択肢に目を向けようとしなくなってしまうのだ。

受験対策講座に置き換えれば、「受講する→合格」「受講しない→不合格」の2択で頭の中が一時的に占拠される状況をいうのだろう。

その資格取得が人生の大一番で「オール・オア・ナッシング」であり、「不合格なら人生が終わる」などと考えていたならなおさらである。

心の余裕はなくなり、「受講しない→合格」「受講する→不合格」という他の選択肢が意識に上ることすらなくなる。思考停止状態に陥ってしまうのだ。

ビフォーアフターマーケティングに見る「誤った二分法」

マーケティングの世界でも「誤った二分法」は消費者を説得し、購買行動を促すのによく使われる。その代表格が商品やサービスのビフォーアフターを示す試みだろう。

ビフォーアフター

ビフォーアフターとは商品やサービスを利用する事前と事後の変化をわかりやすく示し、まさに「百聞は一見にしかず」「一目瞭然」で消費者を納得させる方法だ。

メイクやファッション、ダイエット、健康食品、フィットネスクラブ、住宅リフォームなど、事前と事後の違いを視覚的に訴えやすい分野で広く活用されている。

消費者はその落差に圧倒されてしまい、その便益を是が非でも手に入れたいという衝動に駆られる。

その商品やサービスを買わずに、その便益を得る方法があることを考慮しなくなってしまうのだ。

マーケターは過度に不安を煽れば消費者から警戒を招き逆効果となることをよく心得ている。

そのため情報提示の演出には最善が尽くされるが、論法としては「壺を買えば、必ずいいことある」と大きくは変わらない。

人は元来、二分法で世界を見るようにできている

ではそもそもなぜ、人は「誤った二分法」に陥りやすいのか? 

実際には他にも選択肢があるのに、その二つの選択肢だけで白黒つけようとしてしまうのはなぜだろう?

それは人は元来、二分法的に世界を見るようにできているためである。普遍的な認知システムが絡んでいるのだ。

たとえば、自分を中心に周囲のものごとの位置関係を認識する際、人はその対象の位置を無意識のうちに「上下」「前後」「左右」などの二分法でとらえている。

後から意識が追い付く形で「あっ、上にある」などと思うのだ。ものごとの性質や特徴をとらえるのも同様である。「大小」「長短」「明暗」などと二分法のつみ重ねでとらえている。

より抽象的な概念もしかりだろう。

「善悪」「真偽」「利害」「優劣」などの二分法的な区分けからは免れない。

「よいこと」「悪いこと」などとほぼ自動的に振り分けている。

曖昧でグレーゾーンをいくら内包していようとお構いなしだ。いったんどちらかに振り分けなければ、認識したり、記憶したり、考えたりといったプロセスが極めて煩雑になってしまうためである。

BAD GOOD 

こうした認知スタイルが人のデフォルト(初期設定、当然)になっているため、二者択一で迫られると、半ば自動的にどちらかを選ぶモードにスイッチが入ってしまう。

いつも二分法的に世界を見る癖がついているため、とりあえずその2択ですべてが網羅されているように錯覚してしまうのだ。

Aにしますか? それともBにしますか? 「誤前提暗示」のテクニック

交渉術やプレゼンテクニックの世界では「誤った二分法」を「誤前提暗示」という。

相手から肯定的な答えを引き出すために、選択肢は2つしかないという暗示をかけてしまうのだ。

たとえば、友人を食事に誘いたいとき、「寿司にする? ステーキにする?」といきなり2択で提示する。

すると相手は「食事にはいかない」という選択肢は言い出しにくくなり、寿司であれステーキであれ、食事にいくことには同意することになる。

「きのこの山とたけのこの里、どっち派?」のキャンペーンも狙いはそこだろう。

消費者の頭の中にその2つのブランドで二分される世界をつくってしまう。

すると、他のチョコ菓子のブランドやチョコ菓子自体は選ばないという選択肢が(一時的にせよ)締め出されてしまうのだ。そうなればメーカー側の思うつぼだろう。

実際にコンビニやスーパーで購入する際には、物理的には多くのブランドが目に入るが、記憶の中で「きのこの山」と「たけのこの里」が際立っているため、なんとなくどちらかのブランドから選んでしまう。

「なんとなく選んでしまう」の状況にも「誤った二分法」を

この「なんとなく選んでしまう」の体(てい)に消費者を仕向けるのに、実は「誤った二分法」は効果絶大だ。

「誤った二分法」の活用といえば、面と向かって二者択一で迫り、消費者が「自分は説得されている」と自覚する場面ばかりが想定される。

しかし、一般消費財のマーケターなら、消費者自身が意識の及ばない世界で「誤った二分法」を駆使したい。

まずは人の認識の根幹を成すような自明の対立軸を選ぶ。

たとえば「大きい・小さい」「長い・短い」「重い・軽い」など、小さい子どもでもわかるような対照をなす形容詞がその例となる。

そして、対立軸のどちらか片方にその代表選手としてブランドを紐づけるのだ。

すると人が本来持つ二分法的な認知システムが自動的に起動し、競合のブランド群は、対立軸の向こう側に追いやられることになる。

「きのこの山」と「たけのこの里」のように後から作為的に対立項に仕立てた二択でもよい。

ただし、「誤った二分法」を自然な形で引き出すのには、その両者によほどの実力があって対立的であることが必然になっている場合に限られるだろう。

「チョコモナカジャンボ」と「ウィルキンソン」を際立たせた対立軸とは?

本ブログでも取り上げた森永製菓の「チョコモナカジャンボ」がそのよい例となる。

「ジャンボ」と打ち出されたことで、消費者の頭の中ではさっそく二分法的な認識システムが起動する。

「チョコモナカジャンボ」は「大きい・小さい」のうち、「大きい」に紐づくことになるのだ。

すると、「ジャンボ」とは銘打っていない他のブランドは「チョコモナカジャンボ」よりも、相対的に小さいと感じてしまう。

ここで「大きい」と「小さい」の間にある「ふつう」や「どちらともいえない」といったグラデーションが無視されるのは「誤った二分法」のなせる技といえるだろう。

このことが「チョコモナカジャンボ」にブランドとしての際立ちを与える。

実際に容量ではロッテアイスの「モナ王」の方が大きいようだが、物理的な事実はもはや関係ない。

結果的に「チョコモナカジャンボ」は消費者の頭の中で際立ち、独自の鮮度管理によって「パリパリッ」とした食感を実現したこととも相まって、安定的な売行きを示すロングセラーブランドとなっている。

「誤った二分法」によって優位性を得たブランドにはアサヒ飲料の「ウィルキンソン」もあるだろう。

もともとお酒の割り材として利用されていた「ウィルキンソン」をペットボトルで直接(ストレート)飲用するというスタイルを提案したことからブランドの快進撃が始まった。

「ウィルキンソン」は2つの対立軸がブランドを下支えしているといえる。

一つはお酒の割り材からスタートしたこともあり、「無糖」の炭酸飲料であることがブランドに際立ちを与えた。

「有」「無」という対立軸の「無」を占めたのだ。

さらに「炭酸が強め」、いわゆる「強炭酸」であることもブランドを勢いづけた。

こちらは「強」「弱」の対立軸の「強」を占めた格好となる。

この2つの対立軸が交差する無糖で強炭酸のカテゴリーを代表することで、「ウィルキンソン」は強豪ぞろいの炭酸飲料市場において不動の地位を築く。

2021年は過去最高の販売数量を記録したという。無糖で強炭酸の飲料ブランドが次々に追随したのにもかかわらずだ。

「精神的な豊かさ」と結びついたマスターカード

さらに「誤った二分法」によって優位に立ったブランドには本ブログでも取り上げたマスターカードがある。

マスターカードは「プライスレス…お金で買えない価値がある。」の広告キャンペーンで知られるが、市場を二分する対立軸をつくり出したことがブランドの躍進につながった。

お金やモノとの結びつきが強かったカード業界にあって、逆説的に人とのつながりがもたらす「精神的な豊かさ」を打ち出し、ブランドは独特なオーラをまとうことになったのだ。

マスターカードが「精神的な豊かさ」と結びつくと、「誤った二分法」によって消費者の受け止め方が一変する。

“そうじゃない方”のブランドはすべて「物質的な豊かさ」に類するように見えてしまう。

人とのつながりが生む特別な体験を提供するのがマスターカードなら、業界トップのビザや他のブランドはその対極にあって、あたかも物質的な体験、たとえば宝飾品やブランド物の衣服など自分を誇示するための消費を担うクレジットカードに見えてしまったのだ。

マーケターは常にブランドを際立たせる「対立軸」の探索を

消費者がブランドを選ぼうとするとき、なんとなく「簡単そう」「安心できそう」「自然に近そう」などと判断している。

何気ないことのように思えるが、「簡単・複雑」「安心・不安」「自然・人工」などの対立軸が頭の中にふと浮かび、そのどちらかにブランドを振り分けているのだ。

先に述べた「人は二分法的に世界を見ている」とはこのことである。

であれば、マーケターがすべきことは、この認識システムを理解し、「どんな対立軸ならブランドが際立つのか?」を常に探索することだろう。

並み居る競合ブランドをもう一方に追いやり一緒くたにしてしまうような対立軸を見つけ出すことだ。

その答えにたどり着けるか否かがブランドの命運を握っているといってよい。

容量や商品特性の延長線上にある対立軸ならそう悩むことはないが、マスターカードのように「精神的な豊かさ」となるとなかなか思いつかないだろう。

ブランドの導入期から計画的に狙うのは難しくても、ある程度市場で戦って戦局が見え始めると、「案外この対立軸ならいけるのでは?」と急にひらめくこともある。

そんな千載一遇の補助線を見逃すことのないよう、マーケターなら「誤った二分法」なる概念を頭の片隅に入れておいてもいいだろう。

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