「社会」と「世間」
「社会」と「世間」。
冷静に考えれば別モノとわかるが、実生活ではさほど区別なく使われることも多い言葉だろう。
「社会的な知名度」「社会の不寛容」を「世間的な知名度」と「世間の不寛容」と置き換えても大きな違和感を覚えることはない。
一体、2つの言葉にはどんな意味の違いがあるのだろう?
どんなときに両者は置き換え可能となるのだろう?
今回の記事ではこの「社会」と「世間」の意味をしばし探索してみたい。
実は2つの言葉の意味をきちんと理解し、適宜使い分けできるようにしておくと、気持ちのモヤモヤを解消する一助になったりもするのだ。
まずは「社会」と「世間」の辞書的な意味を押さえておこう。
「社会」の意味とは?
基本的な意味
「社会」とは共通の文化、経済、政治、法律などを共有する人々の集団のこと。
その集団そのものよりも、その集団内の制度や構造、ルール、経済システムなどが認識の対象となることが多い。
「社会」を使った例文
実際に「社会」がどんな風に使われているか、例文の形で見てみよう。
- 社会に出て働くことは、大人になる第一歩だ。
- 彼女は社会復帰を目指してリハビリに励んでいる。
- 社会の一員としての責任を果たすことが大切だ。
- 社会のルールを守ることは、平和な共存に欠かせない。
- 現代社会は、情報化が急速に進んでいる。
- 社会問題として、貧困や格差が深刻化している。
- 教育は社会全体の発展にとって非常に重要だ。
- 社会福祉の充実は国の政策に依存している。
意味の解説
個人や集団が組織的に相互作用する「場」として捉えられており、その範疇は(この後に説明する「世間」に比べ)比較的広い。
国家や都市、国際社会にまで及ぶこともある。
また、多くの場合、平等や自由、民主主義などの普遍的な価値観が前提となっている。
それゆえ「社会問題」といったとき、格差や貧困、差別、不平等などが取沙汰されるのだ。
また、「社会システムの変革」などと言ったりするように、社会は「常に変化し発展していくものだ」という進歩性を含意している。
「世間」とは?
基本的な意味
自分を取り巻く身近な人々やコミュニティのこと。
たとえば、会社の上司や同僚、学校や趣味のサークルにおける友だち、地域や近隣の知り合いなど、自分とつながりがある人たちがいる世界を意味する。
時には、それらの人たちが持つ意見や風潮を意味することもある。
「世間」を使った例文
実際に「世間」がどんな風に使われているか、例文の形で見てみよう。
- 町の人々との世間話は楽しい時間の1つだ。
- 世間知らずなところがある。
- あの事件は世間を震撼させた。
- その噂は世間に広まり、彼の評判を左右した。
- 彼の家族は世間から孤立しているようだった。
- 世間体を気にして本音を隠す人も多い。
- 世間の目を気にせず、自分の信念を貫くことは難しい。
- 世間の声を反映した政策が求められている。
意味の解説
「世間」といったとき、人々の目や世の中の評判、あるいはそのような評判を気にする感覚に注意が向けられていることが多い。
「世間に顔向けできない」「世間の口がうるさい」といった表現はまさにその典型だろう。
直接的に自分とかかわる人たちの「目」が意識されているのだ。
ちなみにその「世間」から与えられた地位や名誉を「体面」という。
世間の目を気にしてしまう背景には、折角授かった「体面」を失うことへの恐れがある。
ニュアンスの違いは?
改めて「社会」と「世間」の意味に立ち返ると、やはり両者には明確な違いがあることがわかるだろう。
まず大きな違いの1つがその範囲だ。
「社会」は国や世界といった広範囲を指すことが多く、「世間」は自分が直接関わる範囲、身近な人々や地域に限定されることが多い。
また視点の取り方が明らかに違う。
「社会」は客観的な視点で捉えられ、制度や構造などを分析的に見ていることが多い。
一方、「世間」はもっぱら主観的な視点となる。
それゆえ、個人の感情や価値観、人間関係などが重視される傾向にあるのだ。
また、「社会」と「世間」が含意する価値観にも質的な違いがある。
先に触れたように「社会」では平等や自由、民主主義などの普遍的な価値観が前提となる。
一方、「世間」となると普遍性は失われ、より状況可変的となる。
伝統や慣習、道徳など、身近な人間関係やコミュニティ内で共有される価値観に重きが置かれるといえよう。
「社会」と「世間」のグレーゾーン
ここまで「社会」と「世間」の違いを見てきた。
意味の上でこれほどの違いがありながら、なぜ両者は区別なく使われることがあるのだろう?
たとえば以下のような例文の場合、「社会」を使っても「世間」を使っても大きく意味は変わらない。
- 社会/世間の注目を集めた事件は、メディアでも大きく取り上げられた。
- 彼の言動は社会/世間の反感を買った。
- この映画は社会/世間的に大きな反響を呼んだ。
- その企業は社会/世間からの批判にさらされている。
- 社会/世間の評価を気にせず、自分の信念を貫くことは難しい。
- 新しいトレンドが社会/世間に急速に広がっている。
- 新しい法律は社会/世間にどのような影響を与えるだろうか。
- 社会/世間の声を無視して政策を進めることはできない。
これらの例文からも傾向が読み取れるが、主語が不在の、抽象論やイメージに終始する文脈であれば、2つの言葉は意味の輪郭を失い、置き替え可能となる。
たとえば以下のような事柄に意識が向かうような文脈だ。
- 一般的な「人々の集合体」
- 広く「人々」や「人の集まり」など一般的な「人々の集合体」に意識が向かう場合、「社会」と「世間」の線引きは曖昧となり、ほぼ置き換え可能となる。
- 例:「社会に広がる不満」「世間に広がる不満」
- 広く「人々」や「人の集まり」など一般的な「人々の集合体」に意識が向かう場合、「社会」と「世間」の線引きは曖昧となり、ほぼ置き換え可能となる。
- 漠然とした評価や関心
- 漠然とした評価や関心、風評などに焦点が当たる場合も、「社会」と「世間」の意味の違いは薄れ、置き換え可能となる。いずれも「他者からの目」という形でひとくくりにできるためである。
- 例:「社会的な評価」「世間的な評価」
- 外部からの圧力や規範意識
- 「社会」も「世間」も外部からの圧力や規範意識を指す際に使われることがある。いわゆる「同調圧力」といった見えない力が問われているとき、「社会」と「世間」は置き換え可能となる。
- 例:「社会的規範」「世間の規範」
以上の3つは決して特殊な文脈ではない。
日常会話でも頻出するだろう。
しかもメディアでもほぼ同じ意味で頻繁に使われるため、いつの間にか「社会」も「世間」も似たり寄ったりの言葉として定着してしまったのだ。
「社会」と「世間」を切り分ける
日本人は古くから地域共同体や家族、職場などの小さな集団内での調和を重視する傾向がある。
そのため、本来なら「社会」とすべきところを「世間」と捉えたりする。
やたらと「世間」が幅を利かせてくるのだ。
そうこうするうちに、いつのまにか「社会」と「世間」がごっちゃになってしまう。
しかし、そこをあえて線引きしている。
今の時代を生きる処世術の1つとして両者の違いちょっと意識してみるのだ。
仮に生きていく上で、何らかの悩みや迷いが生じたとしよう。
その際、その問題を以下の「社会」と「世間」の2つの視点で捉え直してみよう。
「社会」の視点
「社会」の視点に立つと、先にも触れたように、制度や法、経済、教育など、より大きな枠組みや構造がより強調されることになる。
そこで、自分が直面する問題を「社会全体の中でどう位置づけられるか」を考えてみよう。
ひょっとしたら、労働環境やジェンダー不平等など、個人的なものではなく、社会構造的な問題なのかもしれない。
いったん「社会的な問題」の一部として捉え直すと、過度に自分を責めることもなく、より客観的に問題に対処できるようになる。
そのことは同時に、「社会」の中で自分がどのような役割を果たしているかを再評価することにもなり、自尊心を高めたり、自分の行動に意味を見出したりする助けにもなる。
コロナ禍で注目されたエッセンシャルワーク(生活の維持に必要不可欠な仕事)はその端的な例といえるだろう。
「社会」の視点を意識的に持ち込むことで、問題の対処の仕方にバリェーションが生まれるのだ。
不必要に孤独感や無力感に苦しむこともなく、自己肯定感の向上や生きる意欲の増幅にもつながる可能性もあるだろう。
「世間」の視点
ここでは「世間」の視点を重視せよと言うのではない。
「世間」の視点に縛られていないかを確認するということだ。
「世間」は他者からの視線や評判、身近な人々との関係を重視する言葉である。
その「世間」の視点に立ってしまうと、他人からどう見られるかという点に拘泥してしまいがちとなる。
他者の評価に過度に囚われ、自分自身の価値観をないがしろにしてしまうのだ。
そこで意識的に「世間」の期待から距離を置いてみる。
そうすることで無意識に感じていたプレッシャーやストレスの原因に気づけるかもしれない。
「世間の目」に縛られない生き方や選択もあると知り、自分にとって本当に大切なことに集中しようと思えるようになるかもしれないのだ。
「社会」と「世間」の二刀流へ
今回の記事では「社会」と「世間」の意味を一通りおさらいし、両者は指し示す範囲や視点の投げかけ方(客観と主観)、含意する価値観に歴然とした違いがあることも指摘した。
一方で、主語が不在の、抽象論やイメージに終始する文脈では「社会」と「世間」の意味が重なり合い、それが両者を混同する一因になっていることにも触れた。
識者によれば、「世間」という概念は日本特有のニュアンスを含んでおり、欧米社会には直接対応する言葉がないらしい。
「村社会」と言われるような共同体意識を古くから継承し、「恥の文化」にどっぷり浸かってきた日本。
他人の目を常に意識し、周囲に合わせることを美徳とされる土壌だからこそ「世間」という言葉が生まれたのだろう。
しかし、今の日本人は、西洋の思想から日本に持ち込まれ、翻訳語として成立した「社会」の概念を手中にしている。
2つの視点から多角的に直面する問題に対処できるようになっているのだ。
この2つの言葉を似たり寄ったりであるとひとくくりにしてしまうのはあまりにもったいない。
「社会」と「世間」を切り分けることを処世術の1つとして頭の片隅に置いておきたい。