モラルライセンシング(モラル信任効果) その原因と対策とは?

モラルライセンシング
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「モラルライセンシング」とはよいことをすると悪いことをしたくなることをいう。

ちょっとした自制心や忍耐力を働かせる機会があると、「頑張った!」「いいことをした!」という自覚が生まれ、自分にご褒美をあげたくなる。

免罪符でももらったような気になって、普段は控えていたようなカロリー過多の食事や散財などにあっさり手を染めてしまう。

目標に向かって努力する人たちにはその進行を妨げることにもなる厄介な心理現象といえよう。

しかし、実は、マーケターにとっては消費者の購買行動を喚起できる打出の小槌にもなり得るのだ。

目次

モラルライセンシングとは?

今回の記事ではモラルライセンシングを取り上げたい。

簡単にいえばよいことをすると悪いことをしたくなることをいう。

「モラル信任効果」という言い方もする。

モラルライセンシングの効果が発揮された例といえば以下のようなことが考えらえる。

  • ダイエットのために運動を頑張ったりすると、高カロリー・高糖質なものを食べてしまう。
  • 衝動買いをぐっと我慢して家に帰ったら、甘いおやつをペロリとたいらげてしまう。
  • 献身的に働いたからと、会社のクレジットカードをちょっとだけ私用に使ってしまう。

普段ならいけないことという認識があって控えていたのに、よいことをしたとたん、罪悪感がすっと薄れていく。

頑張った自分

頑張った自分へのご褒美だからいいと正当化してしまう。

モラルライセンシングという用語に馴染みがなかったにせよ、誰にとっても日常的なあるあるの1つだろう。

「今日は無礼講」とばかりに、たまに贅沢をしたり、羽目を外したりするぐらいなら人生のスパイスかもしれない。

しかし、よいことをするたびに悪いことをするというサイクルがずっと続くなら、事はちょっと厄介だ。

減量や節酒、適度な運動など生活改善に向けた計画がいっこうに進まない。

あるいはふと気づけば浮気やギャンブルにのめりこんでいたということも起こり得る。

別名「免罪符効果」とも

芸能人の不倫や浮気、政治家の汚職や不祥事などがメディアを賑わすことがある。

一般の人からは「品行方正」「優等生」に見えていた人たちであれば、なおのこと衝撃を持って受け止められる。

厳しいバッシングの対象になることもあるだろう。

しかし、本人の自制心が崩壊していたと考えるのは早計かもしれない。

ふとした瞬間にモラルライセンシングの罠にはまってしまっただけとも考えられるだろう。

むしろ「品行方正」「優等生」だからこそ、モラルライセンシングが作動しやすくなり、その反動で不道徳な行為に及んでしまった可能性もある。

自分は研鑽を積み、人から一目を置かれる存在になった。

常に大きなプレッシャーやストレスにも耐えてきた。

そんな自負があればこそ、自分をねぎらおうと罪深い行為の誘惑に自ら、潔く屈する。

自分へのご褒美であり、多少のことならバチが当たることはない。

そんな内なる声が聞こえてきたのだろう。

モラルライセンシングは別名「免罪符効果」と言われることもある。

免罪符

免罪符とは中世のカトリック教会が、罪の償いが免除されるとして発行した証書のこと。

その免罪符を社会で選ばれし存在の自分なら、受け取る十分な資格があると思ってしまったのかもしれない。

イメージしただけでも効果を発揮

このモラルライセンシングの効果は、実際はよいことは未実行であっても、「よいことをする」とイメージしただけでも発揮されるらしい。

たとえば、「スタンフォード自分を変える教室」にこんな研究結果が紹介されている。

実験参加者に2つのうち、どちらのボランティアをやってみたいかを尋ねた。

1つはホームレス支援施設で子どもたちに勉強を教えるか、もう1つは環境改善運動に参加するかである。

すると、実際に参加申し込みをしたわけでもなく、ただどちらにしようかと考えただけなのに、その参加者たちはその後、自分へのご褒美にデザイナージーンズや高級サングラスなどを買いたい気分になったらしい。

ジーンズ
サングラス

別の実験では実験参加者がチャリティーにお金を寄付しようと考えただけで、(実際にはお金を渡したわけでもないのに)自分のために何か買い物をしたいという気持ちが強まったという。

なぜ、モラルライセンシングは起こるのか?

ではなぜ、モラルライセンシングは引き起こされるのだろうか? 

なぜ、よいことをすると、悪いことをしてもいいという気分になるのだろうか?

それは一つに、自制心やモチベーションなど自分の意志力が試される行為を「善悪」の問題としてとらえがちなことがあるという。

善悪

自分の頑張った行為をいったん「善」道徳的に正しいこととして位置づけたとしよう。

すると、そんなルールに縛られたくないという相反する欲求が自然に湧いてきてしまうのだという。

ちょうど昔ばなしの「鶴の恩返し」の一コマだろう。

「機を織っている間は、決して部屋を覗かないでください」と禁止されるとよけいに覗いてみたくなる心理だ。

ただし、「鶴の恩返し」と異なる点は、そんなルールを課すのは自分自身であるということ。

そのセルフコントロールが効いて、たとえば減量や節酒、適度な運動などをある程度続けられたとしよう。

すると内なる声が聞こえている。

「とてもいいことをした。お天道様に褒められそうだ」と。

そう声が聞こえるや否や、「悪」に魅入られたもう一人の自分がささやき始める。

  • いいことをしたんだから、ちょっとぐらいなら悪いことをしていいさ
  • バチは当たらないさ
  • 自分にご褒美をあげなくちゃ
  • お天道様も笑って許してくれるはず

そして、浪費や深酒など禁を破る行為は、頑張った自分への勲章や報酬なんだと、いとも簡単に正当化してしまう。

意志力は「善悪」の問題か?

ここで一つ誤解があるのは、たしかに不倫や不正、汚職なら道徳的に問題ではあるが、減量や節酒、適度な運動は個人的な成長課題であり、道徳的な意義は薄い。

「善悪」の二分法にあてはめるのは本来なら筋違いだろう。

しかし、そこを区別しようとしない。

自制心を働かせ努力することを「善」と位置付けてしまうがゆえ、もう一人の相反する自分にいたずらに出番をつくってしまうのだ。

モラルライセンシングを防ぐなら、個人的な目標のための努力や忍耐は「善悪」の問題とは何ら関係ないとはっきり区別するのが最初の一歩だろう。

「スタンフォードの自分を変える教室」にはこんな実験結果が紹介されている。

ダイエットが順調に進んでいる実験参加者と面会し、まずは理想の体重にどれだけ近づいたかを確認した。

参加者は奨励賞としてリンゴかチョコバーをもらえるが、進歩を自覚して気分がよくなった参加者は、その85%がリンゴではなくチョコバーを選んだという。

チョコバー

一方で進捗状況を確認しなかった参加者ではチョコバーを選んだのは58%にとどまった。

別の実験でも試験勉強を何時間くらい行ったかを確認した学生はやはり気分がよくなり、その晩は友人たちに飲みに出かける確率が高まったという。

違いはダイエットや勉強が少し目標に近づいことを確認したか否かだけだ。

ただそれだけで人は気をゆるめてしまう。

本来なら、順調の目標に近づいているなら、さならる高みを目指して励もうとするのが自然だろう。

一歩進んで二歩下がるような選択肢はないはずだ。

keep going

Image by ArthurHidden on Freepik

ところが「善悪」の枠組みでとらえてしまうと、「善」と「悪」の双方に向かう欲求同士がせめぎ合いに引きずり込まれる。

徳を積んだなら悪いことを少々してもかまわない、バチは当たらないなどと自分を正当化してしまうのだ。

モラルライセンシングの効果は絶大である。

ダイエットや勉強の努力が空回りし、目標から遠ざかってしまうことにもなりかねない。

禁煙のシチュエーションにたとえるなら、「1本だけお化け」と呼ばれる現象だろう。

しばらく成功裏に禁煙していると、「1本だけなら大丈夫かな?」という強い衝動が襲ってくるという。

これもまた、相反する欲求の熾烈なせめぎ合いから来るのだろう。

マーケティングにどう生かされるか?

ここまで見てきたように、個人的な目標を達成するのにモラルライセンシングはなかなか頭の痛い問題になり得る。

しかし、マーケティングの世界では実は、ここかしこで大車輪の活躍をしているといっていい。

前述の実験結果にあったように、ボランティアすると考えただけで、デザイナージーンズや高級サングラスなどを買いたい気分になるのだ。

モラルライセンシングが購買行動を促す方向に働くのは想像に難くない。

ここで再び「スタンフォードの自分を変える教室」に書かれていた別の実験結果を紹介しよう。

ファーストフードの模擬店舗で実験参加者はメニューを手渡され、どれが1つ選ぶように指示される。

参加者たちは予め2つのグループに分けられており、一方のグループにはフライドポテトやチキンナゲット、トッピングつきベークトポテトなどいたって普通のメニューが渡される。

もう一方のグループにはヘルシーなサラダも載っているスペシャルメニューが渡されるのだ。

すると選択肢にサラダが入ったグループでは、参加者たちはとりわけヘルシーではない、最も太りそうなメニューを選ぶ確率が高まったという。

つまり、単にヘルシーなサラダが目に入っただけで、そのサラダのイメージに引っ張られ、健康的な食生活に浸った気になってしまうのだ。

一部の優れた点が全体に及ぶ「ハロー効果(後光効果)」が働いたといえる。

すると健康的なイメージに浴したことから、モラルライセンシングが発動し、どんなジャンクフードを選んでもかまわないと思ってしまう。

この実験の結果はマーケターには示唆的だろう。

もし、世間一般にはジャンクフードと言われるような食品を売りたいなら、ほんの少しヘルシーな要素が視界に入るようにすればいいのだ。

サラダ&ハンバーガー

実はマクドナルドもヘルシーなメニューを加えたとたん、ビッグマックの売り上げが驚異的に伸びたという報告もあるらしい。

当然ながら、マーケターたちはこのモラルライセンシングの効果を販促に生かしている

昨今は環境や社会の持続可能性に配慮する「エシカル消費」が1つのトレンドになっている。

「オーガニック」「ケミカルフリー」「ヴィーガン(完全菜食主義者)」「マクロビティック(玄米菜食中心の食生活)」「ボタニカル」などとうたう商品が人気を得ているのだ。

オーガニック
マクロビ

実はこうしたラベリングが、モラルライセンシング効果を誘発する。

健康や環境によいことをアピールし、消費者のストッパーをこぞって外しにかかるのだ。

「オーガニック」「マクロビティック」などと聞くと、「量を多めに食べても大丈夫」「少しぐらい散財してもいいだろう」と思ってしまう。

普段はダイエットや倹約に気を配っているにもかかわらずだ。

ほかにも「フェアトレード」や「チャリティー」「応援消費」なる言葉もモラルライセンシングとは相性がいい。

マーケターの巧妙な仕掛けとあっさりと誘惑に負ける消費者の関係を懸念し、「ウォッシュ」に陥っていると指摘する識者もいる。

「ウォッシュ」とは実体が伴わない見せかけだけで言葉巧みに商品やサービスを売ろうとすることをいう。

たとえば「グリーンウォッシュ」「ESG(環境、社会、ガバナンス)ウォッシュ」「SDGsウォッシュ」といった使い方をする。

ほかにも仕事や勉強の合間に「プチ贅沢」「自分へのご褒美」と称して消費者の快楽的な消費を誘発するのもマーケターのポピュラーなアプローチだろう。

プチ贅沢

「プチ贅沢」「ご褒美消費」への衝動が湧くような、目標に一歩近づいたと思える瞬間は何気ない日常のなかでいくらでも巡ってくる。

「よいことをしたんだから、ちょっとぐらい悪いことをしてもかかわない」

「自分へのご褒美としてちょっとした贅沢をして何が悪いの?」

そう内なる声がささやき始める。

目標に近づいたとはいえなくとも、我慢を強いられた、ストレスがたまったという瞬間も同様だろう。

モラルライセンシングが発動し、よいことにぐっと傾いたバランスを取り戻そう「悪いこともしておかなくちゃ!」などと内なる声がこだまするのだ。

あっという間に消費者の財布のひもはゆるんでしまう。

さらに周囲には気分転換やリフレッシュ、ストレス解消などといくらでもいい繕える。

マーケターが放つ広告も用意周到で、その正当化に一役買っているのだ。

モラルライセンシングの対策とは?

ではモラルライセンシングに対し、私たちは身を任せるしかないのだろうか? 

それとも抗(あらが)うための打つ手はあるのだろうか?

せっかく目標に向かって努力をしているのに、 モラルライセンシングの罠にはまって努力が空回りしてしまうのは避けたいところだ。

「スタンフォードの自分を変える教室」で提唱されている手立ての1つが、「なぜ、自分は頑張っているのか?」を自問することだという。

今日的な言い方をすれば、個人レベルの「パーパス(存在意義)」を自覚することだ。

いったい、自分は何を目標に、どんな価値観に従って生きているのか? 

それは、今まさに取り組んでいる課題とどんな関係にあるのか? 

自分自身に投げかけてみるのだ。

自分は何を目標に、どんな価値観に従って生きているのか? 

そうすると、ほんの少し目標に近づいたぐらいで、自分へのご褒美だの、バチが当たらないだのという内なる声に屈し、気がゆるむのを自戒できるという。

「スタンフォードの自分を変える教室」には書かれていた研究結果はそのことを裏付けている。

研究者たちが学生に目標に向かって頑張っている際に誘惑に負けなかったときのことを単純に思い出してもらった。

すると、案の定モラルライセンシング効果が働き、70%の学生たちがその後に自分を甘やかす行動をとったという。

一方で、学生たちに「なぜ、誘惑に負けなったのか?」と理由を尋ねたところ、モラルライセンシング効果はみられず、69%の学生はその後に誘惑に負けるようなことはなかったという。

すなわち、自分は「誘惑に負けなかった」「うまくやったんだ」と自覚しただけなら、モラルライセンシングの毒牙にかかってしまう。

しかし、「なぜ、そうしたのか?」という理由にひたすら意識を向けさせると「安易に誘惑に屈するのはいかがなものか?」などといったん立ち止まれるようになる。

いったん立ち止まる

(目標を達成もしていないのに)ご褒美をもらうことがそれほど楽しいこととは感じられなくなるのだ。

さらに目標に近づくためのチャンスに対し、より敏感になるのだという。

「明日はもっとできる」と楽観しない

また、本ブログの以前の記事にも書いたが、人は楽観的で「明日はもっとできる」と考える傾向にあるという。

それゆえ、今日1日ぐらい気をゆるめてもいつでも挽回できると思ってしまうらしい。

「今日はご褒美として楽しむことにして、明日からしっかり取り組もう」といった具合だ。

まずは人は誰でも楽観的に考える傾向があると認識することだ。

たとえば、「このチョコバーを食べちゃうかな?」と頭によぎったら、「これから1年、毎日毎日、午後になったらチョコバーを食べることになるけど、それでもいいわけ?」と自分に問いかける。

また、「やっぱりこれは今日やったほうがいいかな?それとも明日でもいいかなぁ」などと迷ったら、「ずっとそうやって先延ばしにして、後でツケが回ってきてもいいの?」と問いかける。

安易に自分にご褒美をあげることが将来にわたって影響を及ぼしかねないという厳しい側面に自然に目が向くようにするのだ。

よいことをしたらよいことをしよう

今回の記事ではモラルライセンシングについて考察した。

よいことをすると悪いことをしたくなる。

これはもはや人間にとってツーといえばカーの関係にあるといってよい。

諸悪の根源は結局、個人的な自己成長のための自制心や忍耐力を、倫理テストか何かと勘違いしてしまうことにある。

その意志力を発揮することが「徳行」や「善行」のように感じたら、万事休すだ。

とたんにモラルライセンシングが襲ってくる。

不摂生を受け入れ、野放図に生きたいという欲求が頭をもたげてしまうのである。

そうではいけない。

自分には確固たるパーパスがあり、成長を一心に望んでいるという明確な自己像を持つ。

目標に向かってほんの少し前進したことは長い道のりのほんの一里塚に過ぎない。

その自己像に照らし合わせれば、ご褒美欲しさに誘惑に屈するのは大いなる矛盾だと感じるようになるだろう。

「いいことしたんだ。サボっても滅多のことでバチが当たらない」「今日ぐらいラクしても明日になれば挽回できるよ」といった内なる声にも耳を貸そうとはしなくなるはずだ。

よいことをしたらよいことをする。そのマインドセットが最善の策だといえよう。

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